津次郎

映画の感想+ブログ

ノーコンテスト ナックルガール (2023年製作の映画)

2.9

おそらく漫画を和訳したものがそのままセリフになり、そのセリフに日本側監修が入っていない──という感じだった。

キャラクターもストーリーも世界観もノワールをAIがランダム抽出したかのように類型的かつ質感に欠け食玩のようにちゃちだった。

たとえば「マイネーム:偽りと復讐」と比べてみれば「ボクシングと女と裏社会」という同材料でこれほどの差が生じることに驚きを禁じえないだろう。

これは橋本環奈のバイオレンスアクションの覆轍で「可憐な女子のハードなアクション」は漫画であれば暴れない通性なのだが映画になると陳腐化は免れない。所謂、裏目にでた実写化だった。

しかし(個人的に)日本映画の臭みがないのは好感がもてた。

日本映画が発する日本映画の臭み──というものがあり、基本的に日本映画がきらいな人は日本映画を見るたびにその臭み(という敷居)をまたぐ必要がある。

ちなみに日本映画の臭みとはうじうじして封建的でシリアスぶっていてアートぶっていて(オレ様は人の痛みをわかっているぞ──というような)偉そうな気配のことだ。

世界の映画がどんなに進化しても日本では古色蒼然たるドラマを堅持する仕組みづくりが為され“臭さ”が守られてきた。

この映画にはその日本映画臭がなかった。

概要の通りキャストは日本人だがスタッフは外国人である。つまり日本人が日本語を使って日本で演じるだけでは日本映画臭は出ないことがわかる。日本映画臭とはあくまでそういう感性をもつ個人が発する臭気なわけである。

日本のメディアがぜんぶ左なのは日本映画の画一性に無関係ではないと思う。もともとリベラルな人種が映画などの芸道へ進みアートを気取ったり国体を批判したりちんぴらが破滅する話をつくってメディアがそれをもてはやす。──それが日本映画の永久凍土パターンになっているのだろう。──と思う。

この映画は冒頭で言ったように日本人が日本語で演じていながら、日本人が監修に関わっていないかのごとくに日本的間合いや日本的情緒を欠いている。欠いているのがエキゾチックなprosポイントになり、日本/日本人でありながら日本映画には見えないという不思議な感じがあった。

そのせいか見ているうちに面白くなった。荒唐無稽だが惹かれるものがあった。ジョンウー監督福山雅治主演のマンハント追捕(2017)の感じが似ている。ばかっぽいけど楽しい。短絡に反する加虐趣味も妙味だった。

また台詞と展開のちゃちさに反してあからさまに撮影が良かったし、女性もきれいに撮っていた。
きょうび美しすぎるという冠詞を美しすぎるほどではない人に使うことが一般化しているがこの三吉彩花はどう見ても美しすぎるボクサーだったし松田るかもオルチャン風に撮られていた。

それと前田公輝がよかった。ひぐらしのなく頃にやトリハダで笹野鈴々音につきまとわれる役などを覚えているがいずれも目立ち過ぎない汎用イケメンという煮え切らないポジションだったがここでは過去一かっこよかった。