津次郎

映画の感想+ブログ

スミス好きな ザ・キラー (2023年製作の映画)

ザ・キラー

3.8

リーマーヴィンののリメイクだと思っていたら違った。あれはsがついてた。チャン・ヒョク主演の同名もあった。
汎用名詞すぎて検索割れするタイトルだがフランスの漫画の映画化だそうだ。

最初から主人公が語る体で哲学がナレーションされる。概説に(原作は)“漫画”ではなくグラフィックノベルと紹介されており、おそらくゴルゴ13のようにアウトラインを並べないと(=字をいっぱい読まないと)進まない話なのだろう、寡黙な男だがナレーションでは饒舌だった。

かれはメルヴィルのサムライのようなあるいはジンネマンのジャッカルのような一匹狼の殺し屋であり、狙撃に適したホテル向かいのフラットで標的があらわれるのを待っていた。が、なかなかあらわれないのを愚痴っていた。コンテキストはニヒリスティックなのに音楽の趣味はスミスだった。

やがてターゲットはあらわれたがさんざん哲学をのたまったわりにはへっぽこな狙撃ミスで撃ち損じて──からの逃走、報復、復讐という流れ。導入はさすがデヴィッド・フィンチャーだった。

フィルムノワールのムードだが、かれには守るべきガールフレンドがいる。

フィルムノワールという一連のフランス映画群があり、ジャン=ピエール・メルヴィルのサムライ(1967)がその金字塔と言われている。

昔メルヴィルのサムライのレビューに、フィルムノワールの定義ついてこう書いたことがあった。

『私見としては、幸福、饒舌、陽気、人情、楽観などの属性を持った人間がひとりも出てこない映画で、何事にも動じない男が自律や掟に副って生きている。
かれは幸福にならないが、不幸にもならない。なぜなら悲劇臭を出さないのがフィルムノワールだからだ。死のうが生きようが、たんなるファクトとして置かれる。

哀感は多少あってもいいが、訴えるのはだめ。仲間や相棒はいいが、仲良しはだめ。女はいいが、情愛はだめ。ミッションを成し遂げるのはいいが、無償はだめ。生き残るのはいいが、ハッピーエンドはだめ。──それが私的認識のなかのフィルムノワールである。』

いうなれば“失うもののないぼっち”がフィルムノワール。ゆえに愛する者が存在するTheKillerはその括りから外れてしまう。が、変則とはいえRottenTomatoesでは多くの批評家がじっさいにメルヴィルのサムライと本作を比較していた。

個人的にはこの映画がフィルムノワールを拒んでいたのは愛する者の存在以上にモリッシーの歌声だった。なんしろこの殺し屋、四六時中スミスを聴いていて、これでもしGirlfriend In A Comaがかかったらどうなっちまうんだと思ってはらはらしたがさすがにそれは自制したようだった。

imdb7.0、RottenTomatoes86%と63%。

ファスベンダーというとファミリーものや恋愛ものに使われずフィクションかシリアスか悪者かという感じだが、それが価値や意義を生成していて冷酷で潔癖症で手段を選ばない完全主義な気配を巧みに演じた。

予測して即興はよせとか、誰も信じるなとか、対価に見合う戦いにだけ挑めとか、仕事の流儀のナレーションをかぶせつつ、ニコラスウィンディングレフンのドライブやアントンコービンのThe Americanのように“サムライトリビュート”なニヒリズムで孤独な闘いを描いてみせる。
ムードでもっていくので正直なところ話は解りにくかったが映像表現に惹かれた。ただしかえすがえすもスミスは妙味だった。