津次郎

映画の感想+ブログ

父ウィルスミス ドリームプラン (2021年製作の映画)

4.0
アカデミー賞でウィルスミスがクリスロックをビンタした件で、クリスロック支持の米に対し日本人はウィルスミス支持が多数派だった。

日本ではウィルスミスの行動に、か弱い女を守った男らしさ──男気を感じた人が多かったからだ。

ひろゆきがこの現象を解説していた。

要約すると──女が弱いから男が守らなければいけないという日本社会にある定論は一種の男女差別であり、また基本的に気分を害されたことで暴力にうったえたウィルスミスは短慮だった──とした。

日本では男性が女性を守るという構図が一般化している。だが男女平等ならば、侮辱されたスミス夫人自身が出てって仕返しをするのが合理だ。
女の人が劣っているから(保護対象だから)攻撃されたら男が代わりに仕返しをするのが日本では男女差別にならず美談になる。と、ひろゆきは批判したのだった。

たしかにあの事件の直後はウィルスミスの行動を「かっこいい」と言う輩が多かった。多かったというより溢れかえっていた。

かれの行動を「かっこいい」と評した人たちはひろゆきの言う男女差別主義者かもしれない。ただしそれが差別的であることにまったく気づいていないだろう。

おそらく「かっこいい」と支持した理由は自己アピールのようなものだ。ネット上で人の行動/言動を「かっこいい」と言うのは「それをかっこいいと見なせるかっこいいわたし」という意味。かわいいとおなじである。

わたしもスミス支持だが「かっこいい」とは(さらさら)思わなかった。それどころかウィルスミスのビンタは暴力ですらなかった。デモンストレーションだった。

ウィルスミスという人はカメラがとらえていないときでも劇的でエモーショナルな態度をとるタイプの人だ。かれの映画をいくつか見たらなんとなくそれがわかる。それはなんとなくだがこのリテラシーにはじぶんなりの自負がある。

つねに自己演出するタイプであり、かれの演技がうったえてくるのはそのためだ。アイアムレジェンドや幸せのちからや7つの贈り物やCollateral Beautyみたいな深い哀しみを背負った役はかれのように過剰な自意識がなければ表現できなかった。

したがってアカデミー賞でクリスロックがスミスの細君であるジェイダピンケットを侮辱したときも、かれにとってそれは「ワンシーン」だった。
かんぜんに外したが、スミスはおそらく演じただけだ。と、わたしは思っている。

スミスは髪の生えない病を患っている妻をGIジェーンだと揶揄された。だから、一矢報いる必要が生じた。リアクションしないわけにはいかなかった。娘のウィローだって母親に合わせて頭を丸刈りにしている。トレイ、ジェイデン、ウィローを含む家族全体の問題だ。で、とりあえず出ていってビンタした。ぜんぜん絵にならなかったけれどスミスはやらざるを得なかった。夫としてだけじゃなく父として見せなきゃいけなかった。
演技を商売にしている父のデモンストレーションだった。

けっきょくこの件で、言われなくてもいいことを言われ、やらなくてもいいことをやらざるを得なかったウィルスミスはかんぜんな被害者だった。しかも批判に晒され二次三次の被弾も浴び続けている。笑って話せるほど時間が経っても、かならずネタにされるだろう。
まったくどこにクリスロックを擁護する要素があるのかわからない。

よって個人的にはこの事件にたいする米日の温度差も、暴力うんぬんも、ひろゆきの概説も関係ない話だった。スミスは「ワンシーン」を演じただけだった。

この映画にもやはりスミスの自己演出のうまさがあらわれている。
哀しさを背負った気配がじょうずで、その哀しみの中には激しい感情が隠されている。言うなれば、激しい感情をおもてに出さずに、哀しみで表現する異能がウィルスミスにはある。

本編はこんなセリフではじまる。
『おれが育ったルイジアナではKKKから逃げるのに忙しくテニスをやる暇人は皆無だった、でも何かにきょうみを持つとおれは研究する、仕組みや世界一の人びとのやり方など、そうやって娘たちにも教えたんだ』

ウィリアムズ家はどん底のゲットーで生きている。そこでは一歩踏み外すと与太者になるか与太者に巻かれるしかない。
父リチャード(ウィルスミス)は黒人が生き抜くことの困難を知っている。ましてや成功をめざすならば、よっぽど抜け目なく渡らなきゃならない。その依怙地が、かれのドリームプランに強引や独善となってあらわれる。

だがリチャードは大切なことをわかっていた。
ビーナスがジュニアで優勝したとき、リチャードが娘たちにシンデレラを見せて、こう言った。
「だいじなのは彼女の謙虚さだ、人からひどく扱われても、見下されても、彼女は冷静で清らかな心のまま、謙虚だった。この先、試合で誰かと対戦するだろうが、謙虚になれないなら試合はなしだ」

ビーナスとセリーナ、ウィリアムズ家の物語にはシンデレラ曲線がある。
それを成し得たのは父リチャードがスポーツマンシップを理解していたからに他ならない。育成の初期段階で謙虚を教えるなら、たとえテニスプレイヤーで成功しなくとも、立身するだろう。そもそもかれのプランは忍耐/家族/教育の「人づくり」が前提になっていた。その賢さがこの映画にはあった。
(わが国の女子テニスプレイヤーのあのひとと比べたい欲求を抑えました)

また、父リチャードの人物像はスミスの実子トレイ/ジェイデン/ウィローにとって、ときどき妙に頑迷で熱くなりもする父ウィルスミスそのものではなかっただろうか。
King Richardはウィルスミスにとってこれ以上ないほどの嵌まり役だったと思う。

ただ、できればもうすこし尺を縮めたかった。