津次郎

映画の感想+ブログ

その怪物から逃げるほうが主役 その怪物 (2014年製作の映画)

3.0
動作そのものは知っていたが、それが気になる人が他にもいることを、さいきん知った動作なのだが、若い女性の経口揺動というものがある。
ちなみに経口揺動なんて言葉はなく、いまつけた。

死語だが「ぶりっ子」を露呈してしまう動きである。
何かを食べる。
口に入れたその瞬間、頭部および頸部のあたりをぷるるんという感じで揺らす。
これが経口揺動である。

食べるために、いったん食器に顔を伏せたのを、正面に戻すときに揺らす。ぷるるんとは援用にあたいしないかもしれないが、そうとしか言いようがない。

この動作が意図するのは、元はと言えば、食べるという行為にたいする、つつしみである。はしたなさを軽減させるために、がっつかず、口に入れた後にも、拍を置く──美化の目的で、惰性的に出てしまう動き、だと思う。

おそらく、彼女はひとりで食べているときは、揺動しないであろうと思う。だが、人と食べているときは、それが彼氏であろうと、会社の上司であろうと、友人であろうと、条件反射のように揺れる、と思われる。

知る限り、この動きを好ましいものと捉えているひとは、ひとりもいない。ネットでこの話題が俎上にのっているばあい、腐すための指摘である。個人的にも、好ましいとは思わない。だが、日本社会では、けっこう目にする動きだと思う。私自身今までかなりその動きを見てきた気がしている。

ただし、この動作は、前述のごとく、はたから見ると「ぶりっ子」にしか見えないものの、その女性としてみれば、他者に対する見ばえの改善である。転じて言うなれば礼儀ともいえる。

日本の社会のなかで、美しく食べようとする行為が適応していった結果、揺動が完成したのだろう。
が、昔は存在しておらず、起源も創始も知らない。
いわば現代女性が文では飽き足らず、動作に付けてしまった顔文字である。
効果がどうであれ、かわいく見せようとしてやっていることである以上、当人に指摘すべきことではない──とは思っている。

が、ここは当人がいないので論判してしまうが、揺動は美しさを損ねている、ばかりでなく、その女性の知的レベルをことごとく低く見せてしまう──ものだ。

意中の女性と食事に行って、この揺動を見た途端、百年の恋も一時にさめる──かもしれない。私的には揺らすひとなのか思う程度だが、この動作に隔意をもっている男性は多い──と思う。

じっさい揺動は、女性の淑やかさ、賢さ、爽やかさなどをまとめて破壊し、言うなれば中古DVD売り場のワゴンに埋もれている、売れずに散った有象無象の過去のアイドルやグラドルの食事シーンをそこで再現してしまう──ようなものだ。

よく思うのだが、日本社会では、上品に食べようとして、それが功を奏している──すなわち美しく見えている食べ方、というものを見たことがない。

おちょぼ口やちょっとづつの箸運び、口を閉じているのに手でおおったり、ペーパーナプキンの頻用、麺もののときの一本釣りのようなクラスタの小ささ、粋を拒絶したような緩慢な啜り(すすり)、経口揺動、そういった努力は、普段の躍動を知っている女性であればあるほど、あざとく、いわゆる「ぶりっ子」にしか見えないもの──なのである。──と個人的には思っている。

そんな日本女性の食を見てきた私個人からすると、韓国ドラマや映画等において、がつがつ食べる女性にひかれるものがある。
揺動しないし大口でいくし、だいたいにおいて食欲を否定しない。

とりわけあちらのドラマには、簡易な食文化がよく出てくる。コンビニにかならずイートインがあってカップ麺をすすっていたり、屋外テラスみたいになっているところでチャミスルをちびちびやっているシーンもよく出てくる。

個人的にもっとも印象的なのは、インスタント麺を茹で、それを無造作に、鍋ぶたにすくって食べるシーン。映画にもドラマにもけっこうな頻度でそれが出てくる。日本ならば昭和の貧乏学生でも、そんなずぼらをするかどうか──だが、あちらではそれを美人女優でもやる。それが、とてもうまそうに見える。

日本のドラマでは中産階級が一般庶民として扱われるが、あちらで主役となる庶民は、ひと/ふたまわりほど階層が低い。──ような気がする。すなわち、麺を鍋ぶたにすくうのは、冷ましと食器と空腹を同時に満たしている。その刹那的感覚にリアルがある。──と思う。
──ちなみに私は韓国へ行ったこともなく、韓国人も韓国社会も、まったく知りません。知らない人の感想であり、寓意はありません。

──それゆえ、インスタント麺が、まるでごちそうのように見える。もちろんそれがごちそうであることを否定しない。
また、中食が発達しており、登場人物がしばしば店屋物をとる。そこで頻繁に見るのがジャージャー麺。こっちのと違って、あらかじめ和えてある。美観はまったくない。その黒々したのを大口でゾゾゾとすする。この映画にもある。

パクソダムに似たキムゴウンと、オクジャの少女アンソヒョンが出てくる。オルチャン顔とはこの映画のキムボラみたいな顔だろうか。コミカルなバイプレーヤーのペソンウと、ギラギラなバイプレーヤーのキムレハが対照をなしている。

労作だが、頭の弱い設定もあってキムゴウンが少し暑苦しい。バイオレンスと少女の純心で山谷を形成している映画で、恐慌と牧歌性の落差がはげしい。どっちも取りに行って、どっちも取り損ねている感があった。

とうぜん食に焦点はないが、ジャージャー麺のことばかり考えていた。こっちで炸醤といえばもっと挽肉の粒感があるし味噌褐色でもある。あっちは粘性でいかすみのごとく黒い。あのあんはいったい・・・。