津次郎

映画の感想+ブログ

おまえはすでにしんでいる エターナル (2016年製作の映画)

エターナル(吹替版)

3.5
imdbを見ると監督はショートを撮っているだけのひとでこれがデビュー作といえる。
そういや、はちどりもわたしたちも虐待の証明ミスペクも、パクシネが出ているザコールというネットフリックスでみたやつも、デビュー作だった。
韓国映画のばあい、デビュー作でもしっかりした映画の装丁をもっている。

日本が変とおもうのは、本質的なことが疎かにされているようにかんじるときだが、たとえばシライサンというホラー映画があったのだが、とんでもなく拙劣な出来だった。映画の装丁をもっていなくて、桐島の映画部が撮ったかんじ。そのへんのひとに、カメラをあずけても、同クオリティのものはできる。

だがシライサンは、マスコミおよび包括的な世評のなかで、けっこうな地位を保って(しまって)いた。いうなれば、美術館に、うちの三歳の姪が書いた絵がならんでいるのに、それをだれひとり気づかないかんじ。

──それならば、クオリティなんてものが、必要ないんじゃなかろうか。

並べて日本映画のクオリティがじっさいはとんでもなく低いにしても、それをマスコミや権威的な映画関係者が世界が魅了されただの海外で絶賛されただの全米が泣いただのと言っているので、盲目にされているような気がしてしかたがない。──のである。
まあむろん、いっぱんしょみんなので、それはどうでもよろしいことだが。

ただし、韓国映画のデビュー作が、日本映画のデビュー作とはちがい、商品としての格を備えているのは、たしかなことである。それが、なぜなのか、想像にすぎないが、システムが整っていることと、個性よりも技量を尊重しているからだろう。

映画はシックスセンスに似た構造を持っている。
街を輾転とする主人公が、周囲の人々に比べて、書き割りのように稀薄で現実味がない。服装も変わらない。バックパックの少女にもそれがある。死んでいることに気付くべきだったが、それを明かさずに語る演出は自然で、違和感なく欺された。巧いと思うし、とうていデビューとは思えなかった。

新感染で可憐ないんしょうの女子高生だったアンソヒだがここでも光っていた。今年(2020)にはいってYouTubeをはじめているが、かのじょの番組はたのしい。