津次郎

映画の感想+ブログ

蒲田行進曲じゃないよ 蒲田前奏曲 (2020年製作の映画)

蒲田前奏曲

1.5
出演の松林うららによれば『本作の構想について、松林は「自分の半径5mにある話、自分が疑問に思ったことを表現できないかなと思った」と語る。』とあった。(映画ナタリーより)

わりと明瞭に本気で思ったのだが、日本映画がダメなのは、映画を目指す人が(男のばあい)、たんに女優と懇ろ(ねんごろ)になろうとか、いっぱつやりたいと考えているから──ではなかろうか。

ようするに日本映画界には、映画をつくりたい人ではなく、映画製作をつうじて「余禄に預かろう」としている人間ばかりが集まってくる。のである。男のばあいはソレだけなので、近年、必然的に女の監督ばかりがクロースアップされる。どうりで、新進監督で男ってぜんぜん聞かないもんな。(憶測に過ぎません。)

さまざまな日本映画のレビューで日本映画界は昭和ポルノ出身者の巣窟だと述べてきた。

いわゆる重鎮たち荒井晴彦瀬々敬久廣木隆一高橋伴明金子修介(その他大勢)がじっさいピンク映画から出発していて滝田洋二郎や根岸吉太郎といった真っ当な映画監督さえピンクの出身者である。

(きょうび解りきったことですが、旬報系昭和ポルノ出身者より、テレビ出身者、福澤克雄土井裕泰君塚良一本広克行鈴木雅之etcのほうがまともな映画監督です。概してアート映画の監督より、商業映画の製作者のほうがずっとまとも。)

で、なぜ、かれらはピンク(ポルノ映画製作)から入ってきたのだろう──とわたしは考える。
あなたが男ならば、考えてみてほしい。なぜポルノ映画製作にたずさわろう、たずさわりたいと思いますか?

わたしがティーンならばこう考える。ポルノ映画つくるなら、裸が見放題で、ばあいによっちゃ女優とヤレるかもしれない。と。

いま、世間でさかんに持ち上げられている、全裸ハメ撮りでゆうめいになった監督がいるが、その率直な所懐は「ヤレて稼げる旨味」に他ならない。ほかの動機があるだろうか?かれは技法や撮影に新風を持ち込もうとしていただろうか?まがりなりにも「監督」として作品に関わっていただろうか?
かれはただひたすらハメ撮りをしていた、だけだ。

富田靖子のデビュー映画アイコ十六歳(1983)以来専ら少女映画を撮っていた某監督は児童買春ポルノ法違反で逮捕→実刑となり服役している。
しばしば炉裏が炉裏欲求を満足させる目的のために小学校教員になるという事案があるが、日本映画界に巣くう監督もたんにヤレるかもしれない(または、なんらかの余禄に預かろう)と目論んで、映画監督になった可能性はある。と、わたしは思っている。少なくとも、そんなやつは居ないと断言することはできない。

本作、蒲田前奏曲のタイトルから旧世代のわたしは風間杜夫平田満松坂慶子&つかこうへい&深作欣二の蒲田行進曲を思い浮かべた。が、まったく関係はない。蒲田前奏曲は、主人公の名前蒲田マチ子からきている。ただし、役者の話なのでなんとなく被せた──とは思われた。売れない女優蒲田マチ子(松林うらら)がセクハラなどの憂き目に遭うストーリー。予告編のコトバを用いると『今、『最も注目されている』4人の監督が連作した長編映画』。

4つから成るオムニバス中、キャリア的にもっとも長じているのは中川龍太郎監督。こまっしゃくれた映画を撮るふつうのザ日本映画の監督だと(わたしは)思っている。(愛の小さな歴史はよかった。かっこをつけなければいい監督だと思うが、ぜったいにかっこをつける。かっこをつけるなら、それが限界だと思っている。)

初発が中川監督の「蒲田哀歌」で、いつも通りポエムに落とした。2番、3番の穐山茉由、安川有果は21世紀の女の子系で、21世紀の女の子クオリティだった。4番目の渡部紘文監督はモノクロでメタだが、未熟なだけで感想はない。

YouTubeにある松林うらら氏のインタビュー動画では、女優業をするなかで、じっさいにセクハラに遭ったことがあると述べていた。よって冒頭にあるとおり、映画はかのじょの「自分の半径5mにある話」と言える。

映画内の映画業界にあるのは根性論とセクハラの空気感である。現実の映画業界もそんな感じなのだろう──とわたしは思った。

ゴジラVSコングでハリウッドデビューをはたした小栗旬の発言(インタビュー)を幾つか見た。日米の現場のちがいについて繰り返し述べていたのは、スケールの圧倒的格差。金もかけるし、時間もかけること。だが、それにもまして、キャストにもスタッフにも余裕があること──を述べていた。ピリピリなムードがない──と彼は言っていた、のである。

知る由もないことだが、むかしから、日本映画界の撮影現場は、根性論が支配している──ということに、確信を持っている。昭和も今もスポ根みたいな現場が脈々と続いているにちがいない──と思っている。

そのような似非(エセ)な厳しさで律せられた場が、じっさいにはまったく機能していないにもかかわらず、ある種の歓喜をもたらすのは、ご存知のとおりである。

つまり、いっさい高品位・有益・効果的・合理な仕事をしていなくても、根性論(精神論)が、まかりとおっている仕事現場は、ある種の達成感をもたらす。
言ってることがわかるだろうか。がんばってやった──それが、正当性に勝る言い訳になる世界──仕事をしたことがあるなら(あるていど)体感できること。だと思う。

また「ピリピリなムード」ってのは出演女優をいいくるめて落とすのに好都合だ。

厳しい演技指導で知られた(やっぱり)ピンク映画出身の相米慎二監督のウィキペディアにこんな記述がある。

『『魚影の群れ』に主演した夏目雅子は「相米監督がさあ、私にイメージじゃない、って言うの。夏目さんは洗練され過ぎていて、漁師の娘に見えない、って。イメージじゃなきゃあ、最初からキャスティングしなきゃいいじゃない。なのに毎日畳の上に正座させて説教するんだけど急に変わるわけないよね。親がそういう風に育てなかったのに、今更言われてもしょうがないでしょ、って言ったの。でも、相手は監督だからしょうがない、毎日付き合ってあげたけど、あまり頭よくないよね」と話している。』
(ウィキペディア、相米慎二より)

さすが夏目雅子である。世間一般化している映画監督像──さまざまなカリカチュアに見る「わけわかんないことばかり言ってくる映画監督」ってのは、本当なのである。じっさいにそういう癪症のやつが映画監督になる。という現実がある──という話。

また、なんのかんのと文句をつけたり、褒めちぎったり、飴と鞭をつかいわけると、女を落とせる。口説くのと演技指導は紙一重、ていうか同じ技術である。

70年間、今も昔も、無風状態の日本映画界。ようするに、そんなセクハラと根性論が渦巻く、ずぶずぶな撮影現場で、いい映画なんかつくれるわけがない。で、新進監督が女だらけになっている。女は女で全員が21世紀の女の子クオリティだけど。

もちろん、映画監督になる目的・映画をつくる目的が、女優とヤレるかもしれないから、だとしても、悪くはない。ただ、監督の下半身の欲求の副産物を見せられるわれわれは、不愉快です──という話。

(これらは憶測にもとづく持論ですが当たってたらすいません。)