津次郎

映画の感想+ブログ

郷愁 おばあちゃんの家 (2002年製作の映画)

おばあちゃんの家

4.0

韓国では強い創作動機がキャリアをこえて映画を高品質にすることがある。たとえば子猫をお願いやおばあちゃんの家やはちどり。女性で寡作で初監督で、もう撮らないかもしれないが記憶に残っている。

日本では「映画監督になりたい」が動機なのでパッションが承認欲へ変わる。一方、韓国では「作品をつくりたい」が動機なのでパッションがクオリティに変わる。という感じ。

この映画を見ると監督の心中にずっとおばあちゃんの家がありそれを描きたかったことがよくわかる。
それは「キャラクター」なんていう生やさしいものじゃなく、たとえおばあちゃんがいない人でもわかる、万人の郷愁の中にいるおばあちゃんだったと思う。

近現代だが都鄙の文明格差がはげしい。
おばあちゃんは電気も水道もガスもない今にも崩れ落ちそうな苫屋に住んでいる。唖者。深い皺がきざまれたあばた面に困った表情。曲がった腰と白髪、陽に灼けて痩せた小さな身体、汚れほつれた前世紀の着衣。無欲で質素で文字通り虫も殺さず、仏のごとく温柔。ふしぶし痛むのに杖をついて僅かな産物を町で売っている。

都会育ちの孫は、おばあちゃんにひどいことばかりする。
縫った靴捨てられ、瓶割られ、かんざし盗られ、夜中に起こされて厠の供連れにされ、KFCが食べたいと言われてさんざん苦労して水煮をつくったのにそっぽむかれ、そりゃもうわがまま放題な目に遭い、そのたび悲しそうに胸に手をあてる。それが「ごめんな、ばあちゃんが悪いんだよ、ごめんな」と言ってるように見えるのだ。
ラストは「すべてのおばあさんにこの映画を捧げる」。

気持ちのこもった映画だった。

外国語のウィキにおばあちゃんを演じた女優について「批評家は78歳でこれまで演技をしたことがないばかりか、映画すら見たことがないという未熟なキムウルブンの演技を賞賛した」とあった。が、あれは演技というより素人の素(す)を引き出した結果だった。
おなじく素人の素を引き出したチャンイーモウのあの子をさがしてを思わせた。

公開時よりも後年に見たのだが監督の他の仕事を探した。子猫をお願いやはちどりを見たときのように。

ある映画に感動しても同監督の他作品に同じような感動があるわけではない──ことは知っている。たとえばソフィアコッポラにロストイン~と同格の映画はなかった。当たり前だとは思う。

が、映画ファンは感動や衝撃をうけると、同じ(ような)映画を探す──という行為をする。

探したとき、韓国の女性監督はその映画以外の仕事が(ほとんど)ない──ことがある。だがその1作のクオリティが高い。子猫をお願いもはちどりもおばあちゃんの家もそうだ。ゆえに監督になりたいという動機よりも作品をつくりたいという動機が強く感じられ、監督の心中にあったおばあちゃんの家が普遍性をたずさえ、みんなの郷愁の中にいるおばあちゃんになったのだ。と思う。