津次郎

映画の感想+ブログ

コロンバス(2017年製作の映画)

5.0
imdbを見たのだが、Kogonadaなる監督の履歴には、映画研究のショートフィルムがずらりとならんでいた。

巨匠の名前がタイトルのいちぶになっているから、わかりやすいのだが、ozuというのがあった。さらに、KubrickもBresson もHitchcockもAronofskyもWes Andersonもあった。

Columbusまで、その来歴に、長編映画はなく、すべてがショート。かつ、ほとんどがドキュメンタリーである。
それらのドキュメンタリーを見たことはないが、おそらく、巨匠たちの映像美学の真意究明をこころみるフィルムだと思われる。

だから、Columbusは、Kogonada監督の、長編デビュー映画にもかかわらず、すでに数多の巨匠たちを思わせる、おちつきがあった。

わたしは小津安二郎をよく知らないが、この映画が小津安二郎っぽいかといえば、そうともいえる。

ただKogonada監督が、いわゆる小津オマージュ系の監督と、根本的にちがうのは、すでに画が血肉になっていること──ではなかろうか。

いままで「小津オマージュ」との謳いで喧伝された映画や監督に、ロクなものはなかった。

雑感に過ぎないが、小津がぁとか言っている監督に、まず間違いなくロクなやつはいなかった。

小津安二郎に傾倒して、まっとうだったのは、かつてのヴェンダースやウェスアンダーソンやアキカウリスマキや、またはKogonada監督の本作や・・・いずれにせよ、限られたものしかなかった。と思う。

どのへんが小津っぽいか、よくわからないが、すくなくとも、小津安二郎をまねて腰位置にカメラをすえて撮ってみよう──というような無意味な形骸を、Kogonada監督はやっていない。それが「血肉」の意味である。

自分のなかで消化し、取り込んでいるのであれば、小津風ショットが出てくるわけじゃない。──そのことは、たとえばウェスアンダーソン映画を見て、小津安二郎の真似じゃないけれど、どことなく小津っぽい、と思うことと同様である。

むしろ、その落ち着きは、小津安二郎にかぎった風味でなく、上述した、さまざまな巨匠を研究しショートドキュメンタリーを撮ってきた経歴からくる博覧強記だと思われる。

映画には、新人監督デビューらしき、未成熟はまったくない。
ほんのすこしの未熟も感じなかった。

わたしはパラサイトのレビューに、(撮影の美しさが)Columbusを思わせる──と書いたことを覚えている。
Kogonada監督はそういうすでに巨匠格をもっている「新人」だと思う。
韓国人と紹介されているが、国籍は米国。

Columbus市のことを知らないが、街に、著名な建築家が手がけた建造物が多数あり、それらをとらえながら、映画として美しい絵になっていた。
一見シンメトリカルに見える構図にしながら、たんじゅんなシンメトリカルを嫌っている。そんな老獪なテクニックを感じた。

絵だけでも、そうとうな叙事詩であり、Kogonada監督の今までの映画研究が高いレベルで成就していることは一目瞭然だった。

が、もっと驚くのは、Kogonada監督がペーソス=にんげんをとらえていることではなかろうか。

いうまでもないが、映画はにんげんのことを描くものだ。
たとえば小津安二郎好きが高じてオマージュ作品→腰位置にカメラを据えて、日本家屋をとらえたとして、それがなんになるだろう?(Such as:わたしたちの家=「小津オマージュ」という空っぽ体験ができる「天才」がつくった映画です)

いかに映画研究者・トリビューターといえども、巨匠を模倣するだけならbotにできる。映画監督は、にんげんを、ペーソスを描くことができなければ意味がない。

絵だけじゃなく、ドラマも描けているとき、感心する。
Columbusはそれだった。

後日の発見だが、静謐な感じの時間/空間の取り方が、韓国映画のはちどりに似ていると思った。
なんなんだろうか、血なのか、大陸とのつながりなのか、日本人はああ/こういう端厳な静寧な絵をぜったい撮れない。気がした。

ヘイリールーはじょうずな女優なので、監督にはキャスティングセンスも感じた。
ラスト近く、パーカーポージーが運転席にいて、ジョンチョーが後部にいて、助手席のヘイリールーが泣き出す場面がある。なんか説明不能だがすごく巧いなあと思った。