津次郎

映画の感想+ブログ

人間失格 太宰治と3人の女たち(2019年製作の映画)

人間失格 太宰治と3人の女たち

1.0
多くの日本人が太宰治の人間失格を読んだことがあると思う。こんなさかりの付いた喀血男の話じゃない。太宰治も映画も知らない人に穢されるのが忌々しくて仕方がないが、このテの日本映画を見ること自体、レビューサイトに悪評して憂さを晴らす目的以外の目的があるとは思わない。日本中の人々に愛される文豪太宰治がこんなしょうもないチンピラだと思いますか?いったい誰がこんな河島英五の歌詞みたいな映画を見たいのですか?

毎度日本映画を腐しているが、なにもすべての日本映画のクオリティが高くなきゃいかんと言ってるわけじゃない。ぜんぜんそんなことじゃない。駄作でも死霊の盆踊りやトロマみたいな映画をつくっているなら、腹なんか立たない。凡作でもスペシャルアクターズならいい。映画の受け手である庶民にたいして、ウケるもの・面白いものをつくってやろうと、それなりに工夫している映画に、腹なんか立つわけがない。

そうじゃなくて、日本映画の天才さん鬼才さんたちはなんにも知らない俺たちに、いきなりワタシの感性って素晴らしいでしょと言ってきやがるのである。そんな自分本位なエンタメってどこにあるんですか?消費者が、映画にだけは歯ぎしる理由は、音楽や小説、絵画などは、熟練していたり卓越していなければ、世に出られないからだ。ピアノだってギターだって、好きに弾いたりはできない。絵だってたとえ写実をめざしていなくてもアグリッパやヴィーナスの石膏胸像を何枚も何枚も素描する。小説だって、つまらなかったり稚拙なら買ってくれない、審査を通らない。なぜ日本映画だけは技術習得が端折られているのですか?という話──なのである。
端的に言えば、もはや日本映画に良くなってほしいと思っているわけではなく「なんだろう、気取るのやめてもらっていいですか?」ということ──なのである。

おそらく日本映画の天才さん鬼才さんたちは黒澤明や小津安二郎が「漠然とした天才的感覚」みたいなもので映画を撮ってきたという幻影から抜け出すことができないのである。そして、その感覚をじぶんも持っているのではないかという希望的観測からも抜け出すことができない。のだろう。知る由のないことなので憶測ですが。
日本には出演作にいい映画がない、そうとうな演技派の役者さん──が常に一定量いて、それがじわじわ増えている感がある。かれらがいちばん気の毒です。

ところでNetFlixで見ていて、はじめて気づいたのですが、右下に再生速度というのがありました。1.5が最速になっているので、120分映画を80分で見ることができましたが日本映画用にもっと早い速度があってもいいと思います。0点。