津次郎

映画の感想+ブログ

構図至上の映画世界に浸る 犬ヶ島 (2018年製作の映画)

犬ヶ島 (字幕版)

3.0
いっぱんじんならば、映画を好きだといっても、べつに誰かと映画について語り合うわけじゃないし、好きな映画がどれか公表することもないわけです。(リアル世界で)
学生のころは、そんな機会もありましたが、それにしたってまれなことでした。

そうすると、自分はこれ/あれが好きだということを、自分のなかに保管しておくのですが、たんに、自分のなかに保管してある主観なのに、好きが素直ではないことがあります。

これは、なんといいますか「これを好きじゃないと映画通ではない(ような)監督」に向けられた主観です。

よのなかには「これを好きじゃないと映画通ではない(ような)監督」がいまして、わたし的にその筆頭はウェスアンダーソン監督です。

でも、ウェスアンダーソン監督は、いいです。
ぜんぜんいい。
とうてい嫌いな監督ではありません。

しかし、低所得者層のわたしは、ウェスアンダーソン監督を、こころから楽しむ事ができません。
ウェスアンダーソン監督の作品世界と趣味が、すごく上質だということは、低所得かつ無教養かつお百姓のわたしにもわかるものの、じゃあ、こころから面白いって言えるか──となると「ええまあ」というかんじです。

だけどウェスアンダーソンは好きだって事にしておきたい。

というのも、ウェスアンダーソンがわかんないとなりますと、小津安二郎がわかんないことになりますし、ウェスアンダーソンと小津安二郎のあいだにあるものにも不寛容ということになります。
また、ウェスアンダーソン監督は、同業者からも敬愛され、その豪勢な出演陣からして、俳優からも敬愛されている、かなり「抑えとかなきゃマズい」存在なのは、まちがいありません。

だから、主観が、いささかずれるとは言え、ある種の違和をおぼえながらも「ウェスアンダーソンが好きです」のポージングをしなきゃならない──ような気がするわけです。

もっとダイレクトに言えば「これを好きじゃないと映画通ではない(ような)監督」ってよりは「これを好きじゃないと映画をわかってない」ことになってしまう監督とも言えるそんざい──なわけです。

わだいのThe French Dispatchが、Completedしていながらなんらかの理由で停まっていますが、それについても「ああたのしみだなあ」とか、主観のなかに居る、二面性の自分の片割れが、つぶやいたりしてみてるわけですが、じっさいには、公開で見るよりは、どこかに降りてきたら見る感じになるのは間違いありません。

あのThe French Dispatchのトレーラーのおもわせぶり。
2021に見る構図のある映画。
嗜む(たしなむ)──ということに対するお百姓として憧れをかんじる一方で、面白そうな気配値振りまくのやめてくれませんかねえ。とも思います。

でも、ウェスアンダーソン監督は、いいです。
ぜんぜんいい。
とうてい嫌いな監督ではありません。

だけど、なんといいますか、ごちそうよりもお茶漬けのほうが好きな、底辺の哀しさ──とでもいいましょうか。その幾何学を愛するには、いかんせんわたしには教養が足りないんじゃなかろうか──という、不安がもたげてきて、しかたありません。

犬ヶ島はいい映画でした。緻密でした。大量で濃厚な、情報と技術がありました。労作でもありました。
だけど、この寓話はどうでしょう。キャラクターやストーリーが、なんらかのシンボル(象徴)であるかのような気配が、常にありますが、出展元がわかる観衆がいるのかな──という感じです。
まさに他人のアタマのなか。
むろんそれが、良くないわけじゃない。映画はすさまじく精巧な模型のようです。

が、これを見ながら、小林アタリやメガ崎やロボドッグや交換留学生や俳句やヨーコオノやパチンコ(武器)や相撲レスラーや刺身などなどの、魅惑的な素材に、わかったような頷きをするのも、空虚なことだなと思います。
だって、どのみち寓意なんて解んないんだから。

でも映画は面白くないわけじゃない。構図至上だと思います。ぜんぶが小津の赤ケトルみたいな絵です。几帳面。に加えてレイヤーの層も深い感じ。ゲームデザインやっても、才能発揮できると思います。

余談ですが「なぜゆえに/じんるいのとも/春に散る花」という俳句が原爆をあらわしているような気がした。