津次郎

映画の感想+ブログ

アーミー・オブ・ザ・デッド(2021年製作の映画)

アーミー・オブ・ザ・デッド

3.4
こんにち、ゾンビが描かれるばあい、どんだけ変化球させていて、その変化球が暴れずに、しっかり物語におさまっているか──が脈所になる、と思う。

ゾンビは今(2021)から半世紀むかし1968年に発明された。
よもや、どこの国のどんなおばかさんといえども、ゾンビを、原初のナイトオブリヴィングデッドまんまには描かない。(日本を除く:君と世界が終わる日にetc)

観衆は、もはやゾンビのことなどアルファからオメガまで知っている。
ゾンビ映画の刷新や発展は、エンタメの創造性やクリエイティビティそのものである。
(君と世界が終わる日をつくった人たちは、人類の叡智を拒絶していた──と言っていい)

となれば、どうやって非ゾンビとゾンビをからませるかが、腐心どころである。
襲われたり絡まれなければドラマにならない。

で、ここでは、一カ所におさめて、そこへ行かざるをえない状況を生み出している。猛者と、無法地帯と、タイムリミットと、──これは(ゾンビ映画じゃないが)ニューヨーク1997を思わせる、魅惑の設定だった。

真田広之演じる、いい感じのいかがわしさを放つアジア人タナカにオファーされ、無理筋な奪取作戦をやることになり、前段は水滸伝よろしく英雄を召集する。
すなわち映画のポイントは、ベガスに(ゾンビが)滞留している状況でもあるが、猛者と美女──筋肉とセクシュアリティの肉体的な躍動でもあった。
Dave Bautistaの圧倒的な肉体。と同時に、その苦み走った表情に、父親の苦悩をも体現しており──ヒロイックなキャラクタライズがみごとだった。

居住区へ入り込んだ彼らにとって、さいだいの脅威となるのがアルファである。
“They’re smarter. They’re faster. They’re organized.”
その恐怖を煽る一方で、世界最大のショービズの街がゾンビ街化したことでゾンビの身ごしらえには一定のコスプレ感がある。巧い映画的仕掛けだった。

作戦が困難なのに加え、仲間割れのリスクも描かれる。核たる主要人物以外は、しょせん寄せ集め。衛兵のTheo Rossiは嫌われキャラで、タナカの下にいたGarret Dillahuntも怪しい。(←おまえが首ちょん切ったから、糞味噌になったんだぞ)
勇者の相対にそれらPoor Whiteが置かれる工夫があり、ゾンビ映画特有のエゴイズム(自分だけ助かろうという利己)も描かれるし、ゾンビ映画特有の自己犠牲精神(人を助けて自分はやられる)も描かれる。そこへ、あらかじめ潜入した、収容施設難民の救出作戦も絡む。主要人物級が先にやられるのも想到だと思う。(詰めすぎではあったが)すべて考え抜かれた脚本だった。

来歴を見て気づいたのだが、ザックスナイダーはロメロのリメイクでデビューしたひとだった。そういえば2004年のDawn of the Deadを見たとき、ツボを心得た演出に、すごく感心した記憶がある。
誰もが知っている元ネタがある。それを今の人向けに、どう翻案するのか。それは映画監督の基本素養ではなかろうか。ゾンビ映画とはいえ、親子愛へ昇華させた労作だった。
一点、ネットフリックス向けにさいしょからディレクターズカット(長尺)になっている気がした。前段の水滸伝的結集から、長さに倦みがなきにしもあらず。劇場公開ならばもっとコンパクトだったと思う。

いちいち牽強付会な対比が鬱陶しい──かもしれないが、古いものを現代風にアレンジすること、陳套を回避すること──は日本の映画監督が疎かにしている課題だと思う。