津次郎

映画の感想+ブログ

ネトフリに入ったきっかけ オクジャ okja (2017年製作の映画)

オクジャ okja


4.3
私が映画を積極的に見始めた80年代90年代には、韓国映画と言えば鯨とりしかありませんでした。これはホントのことです。それがJSAのあたりからパァーっという感じで一気に百花繚乱の様相になったのです。キムギドク、パクチャヌク、ポンジュノ、キムジウン、イチャンドン、ナホンジン。独善でなく内輪でなく媚びでもなく、実質的な世界競争力をそなえた監督たちが束になってあらわれた、という感じで、彼らの映画は、いちいち目鱗でした。私はチョンジェウンの子猫をお願いを見たときの衝撃をいまだ鮮明に覚えています。

その韓国映画の勢いが、まだ続いている気がするのです。
賞レースに過ぎませんが、カンヌを例にとっても、お嬢さん、オクジャ、バーニングと、獲って何ら不思議はない映画が続きましたし、その雪辱をパラサイトで漸く果たした、の感があります。韓国映画の遅すぎるパルムドールだった、と思うのです。

韓国映画の印象は「豪腕」です。
比べてしまうのは問題があるのかもしれませんが、現代日本映画の監督のように「才能があるのか、ないのか、判然としない」というタイプの映画ではありません。まさに豪腕で、確かな演出力でぐいぐい押してきます。あえて例えるなら中島哲也や中村義洋や李相日のように明らかなものを持っています。また、そんな実力派がゴロゴロひしめいている感じがあります。韓国のコンテンツ事業計画は侮れません。

何も知らない素人の考察ですが、韓国では映画を学んだ人が映画を撮っている印象があります。たとえばチェイサーなんてフレッドジンネマンみたいな冷徹な筆致でありながら、ナホンジンは未だ30半ば、とうていデビュー作には見えません。
映画監督になる行程に、日本と韓国では大きな差がある、そんな気がするのです。映画学校を据えるのが日本映画界には必要なのではないか、とか余計なことを思うのです。

余談はさておき、とりわけポンジュノには豪腕の形容がピッタリします。アートに走らず、あくまで娯楽映画の監督であろうとする姿勢には好感が持てますし、娯楽を裏付ける豪腕=演出力があります。
今回、ポンジュノがパルムドールを獲ったということは、言うまでもなく観客賞もポンジュノでしょう。先のカンヌで、ペドロアルモドバル審査委員長が、Netflixを理由に苦渋の選択でオクジャを選外としたのは記憶に新しいところです。
映画には好悪はありますが正誤なんてありません。解っています。でもポンジュノの、こまっしゃくれていない、映画祭媚びのない、大衆が喜ぶ映画づくりは、けだし正だという気がするのです。