津次郎

映画の感想+ブログ

岡崎京子を映像化 チワワちゃん (2018年製作の映画)

2.5
『チワワちゃんはあたし達とあそんだりおしゃべりしたりなやみをうちあけたりバカ話をしたりしたきすしたりセックスしたり恋をしたり憎んだりした人もいた』(原作のマンガより)

放恣で淫奔で、何がしたいのかわからない破天荒な子がいて、彼女に対するそれぞれの思い出を多様なひとたちが語っています。
チワワは気分屋で非倫理的で破滅的で刹那的な子だったのですが、忘れ得ない「人たらし」だったことを、みんなが懐かしがっています。
原作はスピンオフのようにも感じられる小品でした。

勝手に生きる自堕落な人物を、好ましい映画にするのは難しいことです。それを乗り切るため、プロモーションビデオ風のポップできらびやかな描写を挿入しています。が、いずれにしても類型的で、どこかで見たような放縦な若者たちでした。

ただしこれは岡崎京子です。

岡崎京子の漫画は、アンニュイな目ぢからのある女性像が、ファッションアイコンとして、激しく業界ウケしました。
編集者やフォトグラファーや映像作家やミュージシャンや文筆家(いわゆるスノッブな中の人々)が、岡崎京子の女性像をそれぞれの方法で使ったり語ったりしました。そこへ、ご当人の事故があり、新作が拝めないという事態になります。
で、レジェンドになったのです。

ポップ/エキセントリック/頽廃的な岡崎京子の漫画は誰もが認めるものですが、レジェンド扱いになったことで業界人(いわゆるスノッブな中の人々)がそれに「解る人には解る」みたいな精神性/権威性を、纏わり付かせてしまった、という気がするのです。ていうか、そうなりました。

つまり映像化したとき「神格岡崎京子」の雰囲気が介入してくるのです。「おまえらに解るかよ、この世界観?」が介入してくるのです。それはヘルターはもちろん、リバーズでも感じました。
ただ本作はそれら前二作よりずっと、シンプルでまともでした。

しかし根本的に、岡崎京子の映像化とは、元来映像を持っている岡崎京子に映像を付けようとすることの矛盾だと思うのです。