津次郎

映画の感想+ブログ

川べりの食堂 泥の河 (1981年製作の映画)

4.5

原作は1977年に書かれた宮本輝のデビュー作で、映画も小栗康平の初監督作。初見の記憶をだぶらせながら見た。

話は戦後。太平洋戦争によってもたらされた貧しさとトラウマのような暗い気分と社会の変容が物語をつらぬいている。
ヴィットリオデシーカの自転車泥棒(1948)という映画をごぞんじでしょう。デシーカ/ロッセリーニ/初期のヴィスコンティはネオレアリズモ(現実生活の記録的描写を特徴とする写実的映画手法)と言われているが、泥の河もそんな印象をうける映画。日本のインディペンデント映画の金字塔といえる。と思う。

1956年大阪。信雄(のぶお)の両親(田村高廣と藤田弓子)は川べりで食堂をやっている。あるとき対岸に屋形船がきて停泊する。その船には信雄と同じ年格好の喜一(9歳)と銀子(11歳)が不就学のまま暮らしており、母親のしょう子(加賀まりこ)が客をとって細々と生きている。船は居住と郭(くるわ)の部分が仕切られて、別の橋が渡されている。

喜一と銀子は、信雄の食堂へあそびに行き、両親の温かな歓待をうける。喜一は「戦友」を歌ってみせる。一番を歌ったが晋平(信雄の父:田村高廣)にほめられ全部歌えると言って二番も歌う。

ここはお国を何百里
離れてとおき満州の
赤い夕日にてらされて
友は野末の石の下

思えばかなし昨日まで
真先かけて突進し
敵を散々懲らしたる
勇士はここに眠れるか

喜一は無邪気だが銀子は母親の商売が忌むべきものであることを知っていて、じぶんらが享受できる幸せの限度のようなものを知っている。

すでに大人の諦観をもっている銀子は帰り道、信雄の境遇への羨望を込めて「せっけんのにおいがするなあ、のぶちゃんのおかあちゃん・・・」とひとりごとを言う。

子供の頃米櫃(こめびつ)へ手を入れて遊びませんでしたか?わたしの両親は飲食店をやっていたので厨房の大きな米櫃へ手をザクザクと入れて遊んだ。むろん一般家庭でも米の中へ手を突っ込んで遊んだ──という経験を持っている人は大勢居ると思う。その感触を表現するなら「ひんやりして気持ちがいい」という感じで「あたたかい」という感じではないが、貧しい銀子がそれを「温い」(ぬくい)と言ったのはよく理解できる話だった。

信雄と喜一はお金をもらって天神の縁日にでかけるが喜一はやぶれたポケットからお金を落としてしまう。罪滅ぼしに「宝物みせたる」と言われ、沢ガニに灯油をかけて燃やすという無惨な遊びを見せる。信雄は燃えるカニを追っていき、ふと船窓から中を見て、背中に鬼の刺青が入った男に抱かれているしょう子と目が合う。

泥の河は、言うなれば信雄がじぶんと相容れない世界に住む者ら(屋形船に住む喜一と銀子としょう子)との関係を清算する話だが、それらがすべて戦後風景のなかにある。信雄もその両親も貧しく倹しい暮らしをしている。それよりも底辺を覗き見た信雄が、憐憫というより激しい寂寥のようなトラウマに囚われる──という話になっていて、それが時代の哀切を浮かび上がらせる。

喜一がカニを燃やすのは信雄をもてなす手段が何もないからで、やがて喜一も童心を忘れて銀子と過酷な現実を生きることになるだろう。いずれにせよ毎夜客をとる母親のあえぎ声を聞きながら育つ環境の先にどのような修羅が待っているのか解らない。そういう悲劇を描いている。

貧しさと哀切が内外で高い評価を得た。モスクワ映画祭銀賞とアカデミー外国語映画賞ノミネート、IMdb7.9。

現代の日本映画に慣れていると哀切の深度がちがって見える。
基本的に日本映画は不幸に着目して拡大解釈してみせる。が、むりやりつくりだした不幸な状況を描こうとする。たとえばこの哀切を荻上直子とか三島有紀子とか園子温とかと比較してみることができるのか。

そのことと(当然だが)時代のちがいがある。大岡昇平の武蔵野夫人に「事故によらなければ悲劇が起らない。それが二十世紀である」という文がある。文学の偉い人たちによく取り上げられる一節だが、昔からじぶんもこの文の意味を考えることがあった。戦争がなくなってみると、わたしたちは悲劇をこしらえるしかない。それが二十世紀である。と解釈するならば、たとえば火垂るの墓と現代の不幸を比べられるか・・・というより比べるものではない。だいたい悲劇が起こらないならば起こらなくていい。悲劇がなければ悲劇を描かなくていい。

結局どうしても悲劇自慢に見えてしまう現代日本映画と哀切の深度(とでもいうべきもの)の違いを感じざるをえない。しかし悲劇をつくらなくても映画に翻案できる原作はいくらでもある。にもかかわらず、平和で安楽な暮らしを生きている人が悲劇を描いてみせるのが今の日本映画なわけである。
(おそらくそれはクリエイターが苦しい時代を生きているという自己顕示をしたいからであり、じっさいに苦しい時代を生きていないのにそれをすることで日本映画がますますいんちきくさくなっている、たとえばとちくるった新聞記者の原案した与太話が賞をそうなめするというような)

自転車泥棒のような印象の現代日本映画なんてないでしょう──という話。とはいえ木下恵介の映画レビューをしているわけではなく、これはあえて白黒でつくられた1981年の映画なわけであって。

ちなみに1956年は経済白書にて「もはや戦後ではない」という言葉が使われた年だそうで、終戦の1945年から11年目だが、晋平はシベリアに抑留されていた。シベリアからの日本兵の帰還は1947年から1956年までかかったそうだ。映画には「わいらが帰ったあの港(舞鶴)から興安丸(復員船)が中国へ出て行きよった、遺骨受け取りにな」という台詞がある。