津次郎

映画の感想+ブログ

介護と学園 サンコースト (2024年製作の映画)

サンコースト

3.6

映画Suncoastは監督Laura Chinnのデビュー作で監督自身の実体験──10代のとき弟が脳腫瘍になりフロリダのサンコーストというホスピスで最期を迎えるまで6年間介護にあたったこと──にもとづいて書かれている。

折しもサンコーストは当時メディアの渦中にあった。
1998年から2005年にかけてTerri Schiavo事件という生命維持・尊厳死に関する係争があった。
植物状態に陥った妻に対して法定後見人だった夫は栄養チューブを外すことを選択したが、妻の両親は人工栄養および水分補給の継続を支持し、植物状態であるという医学的診断にも異議を唱えた。
この裁判は「死ぬ権利」をめぐって活動家や権利団体を巻き込んだ議論となりメディアでも盛んに報道されたそうだ。

主人公ドリス(Nico Parker)は母クリスティン(ローラ・リニー)と末期癌によって植物状態になった兄と暮らしている。
片親である母は生計をたてるために働き通しで、もっぱら兄の世話をするのはドリスの役目だ。母は仕事疲れと露命の兄を嘆いて不機嫌を隠さず、いつもドリスにつらくあたる。兄の介護に時間をとられるドリスは学校で誰とも話をしたことがなく友達もいない。いよいよとなり兄をサンコーストに入居させ、ドリスとクリスティンは最期の時にそなえる。

サンコーストの周辺ではプラカードを掲げた集団がデモをやっている。前述したTerri Schiavo事件によって湧いた反安楽死活動家たちであり、そのひとりポール(ハレルソン)とドリスは言葉を交わすようになる。

本作のハレルソンはThe Edge of Seventeen(2016)の教師同様に良識とユーモアをもった寛大な男で、ふたりの意見は食い違うものの、ふわりとした友情が生じる。

ポール:「それでもどんな命だって尊い」
──ちょっと笑って、
ドリス:「おもしろい話じゃないのに何で笑ったんだろう。ごめんなさい、長い間誰とも話してないの。兄の世話ばかりに時間を取られて、人と話してない」

ドリスは兄の介護から解放されることを望んでいるが兄の死を望んでいるわけではない。しかし解放と兄の死はイコールであり、それが彼女に深刻なジレンマをもたらしている。
ポールは最愛の妻を亡くした経験から尊厳死が一種の嘱託殺人であるという立場をとっている。おそらくそれは宗教的な立場でもあるだろう。
Terri Schiavo事件は中絶問題にまで伸展し大規模なイデオロギーの対立に拡がった。

個人的には昏睡状態のまま生かしておくなんて愚の骨頂だと思う。中絶もその母胎の主たる女性の自由だろう。
死ぬことや中絶を自分で決められる権利は今後の社会に必要であり正解だ、逆は不正解だ。(と個人的には思っている。)

ただしそういうことは公でおいそれと言えることではない。社会には人命に関しては神妙にするという不文律がある。そこへ自身の体験や宗教が絡みあって、人それぞれ頑なな(かたくなな)死生観が形成されていくのだ。

そんな謹厳で物悲しい死と比べると、ドリスのまわりのクラスメイトたちはまるでミーンガールズのように気楽で陽気な学園生活をやっている。
裕福な屋敷に住み、色恋と夜ごとのパーティ、コンバーチブルを駆り、年齢を偽ってクラブへ行き、アルコールも飲めば大麻もやる。

ドリスには自分の惨めな世界とクラスメイトたちの煌びやかな世界のギャップをうめる回答が見いだせない。

──そんな感じのことが描かれている。ドリスとクラスメイトの格差が大きくてハラハラするが言いたいことがわかる誠実なデビュー作品だった。

また兄の死に臨床して大人びてしまったドリス=Laura Chinnが感じたギャップに加え、日本映画とあっちの映画の成熟度のギャップも感じる映画だった。いつもながら。

ラブアクチュアリー(2003)にはふたつ悲しいエピソードがあった。
アランリックマン演の夫が過剰包装にこだわるローワンアトキンソン演のクラークに包んでもらったジュエリーがじぶんへのプレゼントではないと知ったエマトンプソン演の妻のエピソード。
もうひとつは精神病を患う弟がいて昼夜の別なく弟からかかってくる電話に応対することで自分の幸福が棚上げになってしまったローラリニー演の姉のエピソード。

ローラリニーは哀切か狷介かなんにせよ気楽なキャラクターを充てられない人でこの映画でもそれが生かされた。

imdb6.6、Rottentomatoes76%と87%。