津次郎

映画の感想+ブログ

解消されないけれど心地よい難解さ ホワイト・ノイズ (2022年製作の映画)

ホワイト・ノイズ

3.3
不条理ドラマの「もう終わりにしよう。」(I'm Thinking of Ending Things、2020)になんとなく似ている。

チャーリーカウフマン風に飛躍する話を、ジャームッシュな諧謔ムードで描きつつ、バームバックが持ち味とする夫婦愛へおとす。

出来事は非現実的で、風刺や隠喩として積まれていくが、おぼろげなニュアンスしかつかめない。

が、バームバックを見ているとは思えない意欲作だった。とても他の監督(の映画)を研究・観察しているように感じた。

話がシンボリックで厄介だったので、解釈をもとめて、ホワイトノイズ原作者Don DeLillo(ドンデリーロ)のウィキペディアを見たら、以下の記述があった。

『デリーロの小説は、現代の社会と人々のありようを鋭い視点と鮮やかなイメージによって(しばしばスケールの大きな作品として)描き出そうとするところに特色がある。そこでは社会に流布され人々の態度や行動を左右する様々な事柄と、いかに社会が変容しバーチャルなものが拡がろうとも逃れようの無い物質的なものとが二重写しに捉えられる。つまり一方ではメディアや政治的陰謀、大衆文化、消費文化といったものとそれらによって社会的に流布されたイメージとが人々に対していかに支配的に振舞い、人々に深い影響を及ぼすかが語られ、他方でゴミや身体、有毒物質などといった、あるいは目を背けられあるいは自覚されずにある社会と人々の物質的・身体的側面が強調される。このような二つの側面が絡み合ったり背反したりしながら互いに関わりあい、現代の社会と人々のありようを規定している様子を、デリーロは巧みな構成によって浮き彫りにしてみせた。またそのような社会の実相において、核戦争や死、災害といったカタストロフ的なものが重要な要素となっていることにも目が向けられ、核戦争の恐怖が人々の生活や振る舞いを左右したりメディアが流す災害の映像に人々が見入ったりする一方で、そのような災厄や死に対して人間がその生と身体において逃れようのないものとして直面させられるという両面性が語られる。これらの事柄をはじめとした現代社会に対する鋭い洞察に支えられた物語を、デリーロは的確な筆致によって、鮮やかなリアリティと高度なイマジネーションとを兼ね備えた小説として作り上げた。』
(ウィキペディア「ドン・デリーロ」より)

これを読んでさらにわかんなくなったwが、映画内台詞をつかって簡単に言うと『人は事実という敵に囲まれた弱い生き物』という話。(だと思う。)

消費文化を象徴し「消費するか死ぬか」という命題をドラマに変換している。ジャック(ドライバー)はヒトラーの研究者なので、とうぜんヒトラーやそのカタストロフィはメタファーであろうが、映画ではそこまで深い所は語っていない。

時代設定はスマホやネットがない頃で、事故で大気汚染がおきて家族は避難する。
そのように大きな災難と、スーパーで食品の成分表示を眺めながら買い物をする──といった穏やかな日常を対比しながら『人は事実という敵に囲まれた弱い生き物』であることを浮き彫りにする。

アダムドライバーは下腹をふくらまして中年を演出し、ガーウィグからは夫の映画らしい精神的余裕がかいま見えた。

──

アメリカ映画では大人よりも子供のほうが賢く成熟している──という描写が(とても)頻繁にある。

いま思いついたもので網羅性はないがアダム&アダムとかブックオブヘンリーとかヴィンセントが教えてくれたこと、スパイキッズなんちゃってかぞくおばかんすかぞく・・・。そもそもホームアローンからジョンヒューズからナショナルランプーンから、ほとんどのファミリードラマで大人より子供のほうが利口に設定されている──気がする。

それが本作にもあったのだが、ドンデリーロの原作に対するかたちで評論家がこの現象を論説している。

それによると、大人や親というものは常に自己不信感、あるいは自責の念を抱いているため、未熟で偏執狂的に見えるのであり、さらに80年代以降は(それ以前よりも)子供がマスメディアや消費行為へアクセスできるようになったことで、子供の大人化が進行した──ということだった。

スマホやネットが発展している今は尚更であり、仕事や生活や欲望にからめとられている大人にくらべて、子供のほうが物事の真義を捉えている──ことが常態化している。

ところで、この論説において「大人が持っている自己不信感」という説明が、そのままバームバックの作風につながってくる。

言うなれば「愛しているのに自信がないために素直になれない大人像」。
それをフランシスハやマイヤーウィッツやマリッジストーリー、本作でもバームバックの一貫したテーマとしてみることができた。

が、本作では意欲と挑戦は伝わったものの、投げたメタファーに着地点があったとは思えない。
どんどんメタファーが投げられる雰囲気は悪くなかったが、見終えて俯瞰したとき、ヒトラー研究者、エルヴィス研究者、大気汚染、ダイラーの処方箋、ミスターグレー・・・解消されたとはいえない未消化の隠喩が残った。とは思う。