津次郎

映画の感想+ブログ

はやすぎたのかも 大怪獣のあとしまつ (2022年製作の映画)

大怪獣のあとしまつ

2.7
時効警察がすきな人であれば三木聡はスベるくらいがちょうどいいのは解っているはずだ。というか、微妙or盛大にスベっている有様そのものが三木聡なのであって、根本的に笑いの質がM-1のようなものとは違うことは知っているはず。

──にもかかわらず大怪獣のあとしまつが酷評合戦になってしまったポイントは四つあり①ひとつは半径が広がったこと。インスタント沼や亀意外のような日常や霧山くん(時効警察)のいるオフィスで繰り広げられる小ネタ集のイメージからゴジラ的フィールドへの変換に三木聡シンパさえもついていけなかった。

②暗い時代にふざけた。新型コロナウィルス禍下にスラップスティックの大規模なやつをやった。また公開時期がロシアのウクライナ侵攻と被っていた。

③勘違いされた。進撃の巨人あるいは庵野秀明のようなものを想像した観衆の反撥をくらった。

④編集がぐちゃぐちゃ。なにやってんのかわからない笑。

世評が荒れた要因は以上四点だが、映画は労作だった。
三木映画にふだんはない風刺要素が入っていたことに加え第一線俳優と三木組が総出演していた。岩松了のギャグも他作に比べてさえていない──わけでもなかった。

──

筒井康隆や小松左京といえば今では大家だが、かつてSFがくだらないものと見なされていた時代がある。
むかしの筒井康隆のエッセイには(SFを小馬鹿にするような)頭の固い連中にたいして怒りまくる件がいっぱい出てくる。

大怪獣のあとしまつは筒井康隆風のスラップスティックになっている。

したがって本作に対する拒絶反応は、筒井康隆のジャズ大名や小松左京の日本沈没に対する当時の人たちの拒絶反応に似ている。

だがジャズ大名や日本沈没は今では傑作である。だから大怪獣のあとしまつもおそらく早すぎた。20年後にカルト認定される日がくるだろう。

映画の主題はうんこのようなゲロのようなものの処理作戦からのキノコ繁殖阻止。その主題を夥しいアンサンブルキャストたちが、雁首揃えて大真面目に演じている。ばかばかしいとかくだらないとか百も承知な立脚点からはじまっている話であり、もとからマーケットに載せるのは無謀だった。

映画はパニック映画のパロディと政治家のカリカチュアで構成されているが、けっきょく話が見えないので全体が雪崩のように瓦解している。

とりわけパニック映画的なライブ感を出すために手持ちカメラを揺らしていることと、感動へ導いている気配にすさまじい違和感があった。

なぜこれが感動ヴァイブを発しているのかまったく解らない。サザエさんやちびまる子にタラのテーマが流れているようなものであり、いっそのこと巨大化したアラタくんが巨大うんこをひりだして終わったほうがはるかに合理だった。

ウィキペディアにあった批評家たちの批評は月並みだったが、ひとつ──
『大勢の人々が関わっていながらも「ここまでつまらない」作品が「最後まで、どこかで止まらずに出来上がってしまう」ことに対して、日本の映画業界全体に批判を加えている。』
──という一文は頷けた。

が、それを言うなら日本映画は『どこかで止まらず出来上がってしまう』作品だらけ──だとは思う。

個人的には腹が立たない点において本作には救いがあった。

日本映画のなにが気に入らないのかといえば、アートなおごり=芸術家きどりと、俺様気配=鬼才風(きさいかぜ)吹かしである。

(たとえば)河瀬直美とか荻上直子とか園子温とか蜷川実花とか三島有紀子とか、そういうもってない人が自惚れ値まんまんでくりだしてくる映画にむかつくのであり、逆に言えば腹が立たない映画に反撥は感じない。

前述したように、これほどまでにばかなことを金と人をつかって仰々しく大真面目にやっているプロダクトゆえ、将来再発掘される可能性は大きいと思う。