津次郎

映画の感想+ブログ

“おひとりさま”という欺瞞 私をくいとめて (2020年製作の映画)

私をくいとめて

3.4
ほとんど見ない女優(のん)なので、珍獣を見ているようなおもしろさがあった。

心の声が聞こえるファンタジーだが黒田さん(のん)と多田くん(林遣都)が接近していく感じはけっこうリアルだった。

はじめからほのぼのした空気&コミカルなので、おひとりさまがたのしいっていうよくある話かと思いきや、黒田さんがひとり温泉旅行に行ったとき、ローカルな女性お笑い芸人に傍若無人なDQN客が絡んできて、黒田さんの闇があらわれる。

そこから映画のいんしょうが変わる。

黒田さんは心の傷をかかえている。その痛みを乗り越えるために、もうひとりの自分「A」をつくりだし、その声が聞こえるようになっている。
現実の辛さをしのぐために、そのような自己暗示方法を使っている人もいるだろう。

そんな黒田さんが朴訥でまっとうな男=多田くんとつきあうようになるまでが描かれる。

日本映画臭はなくて助かったが、編集がよくないと思った。この映画は133分もある。映画が長尺化傾向にある今133分は必ずしも長くないが、回している時間がムダに長く、もっと早くシーンを切り替えれば30分はちぢめられる。(と思った。)

だが映画はのんが牽引していく。あきらかにほかの女優とちがった。

生粋のモデルでなに着ても似合う人だった。にこやかにしているときは癒やし系だがギラッとさせるとおそろしい。笑顔からノーカットで愁嘆へ行ける。その豹変がすごいことに加えて端正な顔立ちと乳白色の肌。ずっとアップで映しているのに粗が見えない。いつでも、剥いたばかりのゆで卵のようだった。

また林遣都演じる普通の男=多田くんもじょうずだった。普通──とはいえ、現実には多田くんみたいなまともな人は珍しい。
(この映画の多田くん(林遣都)はあまりにもまとも過ぎて、かえって、なにか/どこかで豹変するタイプの人に見えてしまう。だから二人っきりのシーンになると、製作者が意図していなかったはずのドキドキがある。隠しもった本性など無いのだが、映画慣れしている人はおそらくかれに「まじめのふりをしたサイコパス」のキャラクター気配を感じる──のではなかろうか。少なくともじぶんは感じた。)

原作を知らないが映画の真意は「おひとりさま」にたいする懐疑だと思う。

いまの世の中には、おひとりさまのドラマやエッセイなどが、星の数ほど溢れている。

バブル期に台頭してから今日までひとりの生活がたのしい──とする中産階級の話は連綿とつくられてきた。

はじまりは「おいしい生活」の頃。

『おいしい生活(おいしいせいかつ)とは、1982年にコピーライターの糸井重里が考案、翌年まで用いられた西武百貨店のキャッチコピー。』
(ウィキペディア、おいしい生活 (キャッチコピー)より)

以来、(ひとりで)これをやってみたり、あれをたべたり、こんなこともしてみたり、あんなことも挑戦してみたり、ひとりであることの自由度をつかって生活を満喫すると「おいしい」と誰もが言ってきた。
日本は一億総井之頭五郎と言ってもさしつかえないだろう。

が、ほんとは、おひとりさまなんて素晴らしいことじゃない。

一人でいる人間は、たいてい一人でいることしかできなくて一人でいる。
むなしいと誰かに言われたら「そうだね」と言うだろう。
友人も伴侶も欲しくはないが、友人や伴侶を欲しがる普通の人でありたかった。
一人でいることをさびしいと感じる、普通の人でありたかった。

さまざまなドラマやエッセイにおいて、一人でいることがカッコいいとかおしゃれとか独立独歩であるとか、そういうのはたぶん違う──とじぶんは思っている。

あなたがひとりで居るならきっとご同意していただけると思うがひとりで生きているのは端的にいえば臆病だからに他ならない。

この映画もおそらくそこを突いている。(と思う。)
黒田さんも一人で生きていたほうが楽だけど、そこから脱するほうが人間らしいし、なにより大人っぽい。映画はそんなかのじょの謂わば脱皮を描いていた。と思った。

余談だが能年玲奈からのんになる途中で空白があった。なんらかのトラブルによって所属事務所はかのじょに約15ヶ月間しごとを与えなかった。また事務所からの離脱にともなって契約上、能年玲奈の名前をつかえなくなった。実情はわからないことだが改名が今後の女優業にプラス作用してほしいと思う。