津次郎

映画の感想+ブログ

いたいたしくてあわれ 朝が来る (2020年製作の映画)

朝が来る

1.0
河瀬直美には、なんかがあるような気がしていた。
寡作な印象があるが、wikiページを見ると1992年から年一ペースで、映画をつくっている。すごいキャリア、かつ多作だと思う。
ただ、作風が地味なので、公開規模は狭かったと思われる。
カンヌをとった殯の森(2007)以降は注目されたが、おそらく大衆認知に至ったのはあん(2015)だと思われる。

あんにもその次の光(2017)にもお涙臭があった。
確実に「可哀想な主人公」で釣る作風だった。
あんや光は一杯のかけそばの「貧困」が、ハンセン病や盲目に変換されただけの話だった──と思う。
で、河瀬直美はなんかがあるひとではなく、たんにメロドラマの作家だと、個人的には認識した。

ただし、かつてはメロドラマが顕著ではなかった。
憶測に過ぎないが、アーティスティック(げいじゅつてき)な作風だったけど、大衆に下野する必要が生じて、──つまり、プロデューサーに「なんかもっと売れるもんつくってくれませんかねえ」と言われて、本来の姿「メロドラマ」が顕現した──のであろう。と思われる。

メロドラマの作家ならば、ザ日本映画の系譜にすんなり収まる。あんを見たとき「なあんだ、ふつうのザ日本映画の監督なのか」と思って、ある種ホッとした。

日本映画を見ていて思うのは、なぜエクスキューズするのかなってこと。
われわれ、大人は、現実世界で、同情を誘うような姿(人様から気の毒に思われてしまうような様子)を不特定多数に見せない。お恵みを乞う──意図がなければ。

ところが日本映画には、「わたしはかわいそうなんだぞ!」と絶叫しているような人たちばかりが出てくる。
お恵みを乞うているわけ。
たんじゅんに、同情を誘っているのですよ。
わかんないのかなあ。

にもまして、映画向きの、まことに好都合な不幸。小説(原作)ならば、暴れない筋書きが、映像になったことで突飛な話になっている──気がした。
登場人物は「むしろそんなところに嵌まる方がむずかしいんじゃね」──と言わざるを得ないような、トクベツに特殊でトクベツにお誂え(おあつらえ)でやたら強引な「可哀想さ」のある状況に陥っています。その(逆)御都合主義。不幸がなけりゃ、わざわざ探し出して、自らそこに入りこんじゃう人たちです。
また、なかったことにしないでって字があらわれる部分が社会派から探偵小説に飛んじゃったみたいで、ムリ感が半端なかった。

さらに大仰。シンプルに客観視するなら、たんに子供ができないってだけの夫婦だよね。そりゃ当人にしてみれば、悲しいことだろうさ。だけどな~んか仰々しい悲嘆が鼻につく。にんげん、四六時中、シリアスな局面で生きてるわけじゃない。適当に気を抜いたり笑ったりもするさ。絵にリアルはあるけど、人物像はリアルじゃない。

また永作さんの見た目が、やつれ感を強調しているのだろうけれど、あまりにも野暮。この人、演技がうまいのか、わたしには解らないが、おばさん(にしか見えないひと)を、これでもかというほど近接でとらえていて、ひたすら辟易した。これは容姿ではなく、絵のもんだい。

たとえば、是枝監督はリアリティに寄せるけれど、役者選定はかなり面食いをする。海街も他の映画もリアリティも追及するけれど前提にきれいな役者を使うわけ。つまりリアルなのはいいけれど、見にくい絵は、やはり見にくい──という話。

(ホラー映画で人物の表情を近接にとらえて皺や陰影を強調して醜悪に見せる手法(HereditaryのトニコレットやMilly Shapiroみたいな)があるけれど、この映画は、ほとんどそれに近かった。それが誤算度きわまりなく、案外ホラー映画と言っても差し支えない。──とわりとまじで思った。)

不憫・哀れっぽい・痛々しい、ひたすら気が滅入る話。田舎者の感性。いつもながら空間のリアリティだけは、ある。が、ありえねえって思えるコテコテの不幸をムリムリに設定して、しれっと免罪符にしちゃってる映画。ださい作風です。0点。